アルコール依存症:Noutiブログ

脱アルコール依存症の病気:のうてぃ思考のNoutiブログ

今日1日だけ、依存症者の領域に踏み込まないこと!元アルコール依存妻のうてぃが、依存から自立へライフチェンジを目指す日々。自立して生きることを始めよう。Think Simple。

期待は裏切られます

こんにちは。noutiです。

 

このブログで書いている事、タイトルだけをみると、なんていうネガティブな事ばかり言っているのだろう・・・と自分でもため息が出ます。

 

でも、アルコール依存症と関わる家族にとって、常識が非常識で、非常識が常識になるという事も多々ある事が事実です。それを知らずして、この病と向き合うのは精神的にも至難の技です。だから、今回も書きます。

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アルコール依存症者から出る反省の言葉

アルコール依存症の本人は、日々、自分はなんてバカな事をしているんだろう・・・という現実と向き合わされます。

 

例えば、酔っ払ったせいで、朝起きれず、遅刻したり・・・。

酔っ払ったせいで、家の中のものをグチャグチャにしたり、壊したり・・・。

酔っ払ったせいで、妻とまともな会話一つできず、まともな関係を持てなかったり・・・。

 

その度に「なんて自分はバカなんだ」という事実に直面します。

 

アルコール依存症の進行が行き着くところまで行き着いて、本当に回復しない限り、助かる道はない・・・と言うレベルになると、本人が心の奥底で思っていた反省を口に出すようになります。

 

「自分がバカだったから。」

「酒を飲んだせいだ。」

「もう、やめたい…。」

 

こういう言葉を聞くと、家族は少し嬉しくもなってしまうんです。

なぜなら、あたかも「反省」しているようで、暗闇の日々に光が見えたような感覚になるので。

 

口には出さずとも、どこか心の中で、「ようやく分かってくれた!?そう、そうなのよ!」って思いたくなります。

 

まず、こういった反省が口から出てきた時は、家族側は、黙って「そう、そう」と聞いてあげるだけがベストです。

 

もしくは何も言わなくてもいいくらいです。ただ自発的に出てきた本人の反省に耳を傾けるのみです。

 

間違っても、それを追い立てるように、自分の正論を言ったり、ここぞとばかりに叱ったり、今まで自分がどんなに辛い思いをしてきたかアピールなんて絶対に厳禁です。

 

ただ言わせる、ただ聞く。それのみです。

 

そうすれば、確かにそれは、反省として、回復に必要なプロセスの一つとして活きるかもしれません。

でも、もしそこで、議論を始めたり、注意でもしたら、せっかく回復に向かう一歩も全部水の泡にしてしまいます。 

相手が反省しても期待しない

アルコール依存症者が反省した時に、ちゃんと黙って聞いてあげて、特に議論を持ち出す事もなく、その場は穏やかに過ぎ去ったとしても、もし、家族側が、「やっと反省してくれた!」と過度に喜んじゃうと、超危険です。

 

なぜなら、期待しちゃっているからです。

 

私は以前、早合点でよく期待していました。

勝手に頭の中で「ようやく飲む量が減ってくれる。」「ようやく飲む事が嫌だと思ってくれた。」などと、必要以上に、反省の意味を大きく捉えてしまっていたんです。

 

こうやって期待しちゃうと、その後相手が、何食わぬ顔して、今までと変わらずに飲んでいるのを見ると、今までだったら出てこなかった「怒り」がメラメラと上がってくる可能性が高くなります。

 

なぜなら、期待によって、相手に求める基準が高くなったから。

 

期待によって、基準を高めてしまうと、"これまで通り"にも関わらず、一気に最悪に見えてきたりします・・・。

そうなると、"これまで通り”にブチ切れしたくなります。喧嘩、議論、叱責が始まりやすくなります。

 

そしたら、結局・・・。回復どころか後退です。

 

せっかくいい感じに、反省を受け取れたのに、家族側が「期待」したばっかりにおかしくなるなんてことはよくあります。

 

私も散々失敗をして、どれだけ自分も相手も苦しめてきたんだろうかと思います。

 

だから、期待はNGです。期待は間違いなく裏切られます。正常の人に対しての期待を、アルコール依存症者に適用不可です。アルコール依存症者に対する期待は間違いなく裏切られます。

 

そもそも「期待」という言葉自体、本来全部「自分中心」の解釈なんです。

 

どこか「私のタイミング」でお酒の量が減って、「私のタイミング」で治って・・・と勝手に想像して、期待を膨らませてしまっています。

 

アルコール依存症からの回復はそんな生易しいものじゃありません。長い年月を経て、じわりじわりと進行していったものは、長い年月を経て、じわりじわりと回復していきます。

 

これは認めたもの勝ちです。私がどれだけ急ごうが、足の擦り傷がカサブタになって癒されるまで人間がコントロールできない時間を要するのと同じように、アルコール依存症者の回復に要する時間も、人間がコントロールできるものではありません。

 

だから、家族側の期待は、全く本人のスピードを無視した、独りよがりの考えなんです。そして、そんなものは、回復の邪魔にしかならないから、ない方がましです。

 

「もしかしたら、これサインかも。」とか、「ようやく、治るかも」とか、期待したいけれど、期待しません。

 

ものすごく冷たく、希望の欠片もないような言い方ですが、中途半端な期待によって、回復を阻害するよりはよっぽどましだと理解してください。

 

アルコール依存症の本人の発言によって、いちいち振り回されていたら疲れます。

そうやって期待と落胆を繰り返していること自体が、家族も完全にアルコールに支配されてしまっている証拠です。

 

だから、期待はもうしません。

期待より次の次元へ 

その代わり、長い目で、この病気は回復ができる病気で、いつか必ず乗り越えることはできると信じるのみ。

だからと言って、私が回復を作り出すことはできず、私にできることは、ただ回復の「邪魔」をしないことのみ、と理解することがとても大切です。

 

悲しいかな、期待は裏切られます。

 

でも、「期待は裏切られます」の理解は、期待とかそういう問題の次元に留まるのではなくて、私はアルコール依存症に影響を受けず、自分の幸せを自分で作り出し、人の人生を思い通りにしようとせず、人の人生の回復を邪魔しないことだけにエネルギーを向けようと、期待を遥かに超えた次のステップにいくことを助けてくれます。