「それが『何』なの?」
こんにちは。noutiです。
ちょっと疲れて、寝込んでいました。最近早寝早起きが続いています。でも、久々、眠くて、眠くて、たっぷり昼寝をしました。
昼寝をした時、「そんなダラダラしていたらダメ・・・」って私の心のどこかで騒いでいるようです。そんなに自分に厳しいから人(特に、アルコール依存症の夫)にも厳しいんだよって自分に呆れます。
これは向上心があるとかそんなんじゃないんです。ただの無駄な抵抗なんです・・・。
そうやって、自分にムチを打ちながら毎日を送っていたって、楽しくもないし、体が休みたいサイン出していて、どうあがいても、どうせ休むなら、思いっきり休むことに集中すればいいのに・・・無駄な抵抗を少しずつ減らしていきたいです。
それが『何』なの?
アルコール依存症の家族と過ごす日々の中で、「どうして私がこんな思いをしなきゃいけないの?」「どうして、私がこういう状況に置かれるの?」と嘆きたくなることが何度かありました。
以前は、そんなことを考えると、更に嫌気がさして、世の中に面白みを見出せなくて、そもそもこうなったのって何が原因?と思い巡らし、それをあたかも100%夫のせいだと思い込んでいました。
そして、不用意に夫を責めて、夫も傷ついて、お互いに傷つけあう・・・なんていう今から思えば、何にも面白くない漫才みたいなことを繰り返していました。
今は、たとえ、「どうして私がこんな思いをしなきゃいけないの?」「どうして、私がこういう状況に置かれるの?」という思いが出てきたとしても、速攻でこれです。
「私が『何』なの?」です。
明らかに夫がおかしい。私が正しいのに…となれば、
「私の正しさが『何』なの?」
明らかに私は迷惑をこうむっている…となれば、
「だから『何』なの?」
こればっかりは一言、言ってやらなくてはいけない…となれば、
「その一言が『何』なの?」
心配!彼がこのままじゃ病気になっちゃうかも。早く寝てほしい…となれば、
「だから『何」なの?」
・・・
・・・
・・・
です。
『何』なのっていうのは、つまり、それの『何』が重要なの?という意味です。あたかも喧嘩売っているかのような文言を自分に言い聞かせるんです。
そうこうしているうちに、アホらしくなってきます。怒りで戦闘モードに入っていたのに、いきなりずっこけそうになります。
太平洋戦争中、日本がどんどん劣勢になって、アメリカに負けてしまうかもしれない、このまま負けで戦争が終わってしまうかもしれない・・・なんて時に、「それが『何』なの?」って突っ込むようなものです。
その裏には、勝つことに何の意味があるの?戦争が負けで終わっちゃ何でダメなの?という、その質問の前は考えもしなかった当たり前のこと(つまり、日本は勝利したい!)ということに水をぶっかけるような質問です。
心の中で、怒り、イラつき、どうしようもならない時、「(この状況では)自分は幸せになれない」ということに凝り固まってしまい、どうにかしようと、つい相手に自分の主義主張をしたり、叱責したり、口に出さずとも態度に出したりしてしまいます。
例えば、私は、夫が酔っ払った時に、アルコールを飲んだあとをそのままにしていること、食べたお皿を食べっぱなしにしていることにイライラしていました。
「それぐらい、最低限のことくらいやってよ!!!」とムカムカしていました。
そして、段々と、「こんな風に家の中がくちゃくちゃになっているから、私も憂鬱になっちゃうんじゃん!」と夫の皿から派生して、自分の問題まで、夫のせいにしていました。
ここで、さっきの質問です。
「それが『何』なの?」
私が憂鬱になる・・・それが何なの?だから何?…です。
こうやって、それが『何』なの?と投げかけて、問題を見ることで、自分が一時的にかなり感情的になっていることに気づけます。
そして、自分が憂鬱になると思い、その状態(憂鬱になる)を決断をしたのは、他でもなく自分であることを突き詰められます。
「それが『何』なの?」となった途端、もう一人の自分は、「憂鬱だとか言って、他人のせいにしているなんて、アホらしい」と冷ややかな目で見て、そんなことで騒がれても、しーらないって言っているんです。
こうなると、憂鬱になった(なりそうになった)ことを他人の問題と結びつけることも、他人のせいにすることももうできません。
憂鬱にさせられたという理由で、恐らく許されるであろう“ダラダラ”も、全部自らの選択ということになってしまいます。
ここまでくると、家族がアルコール依存症であることももはや関係ないんです。
アルコール依存症を都合のいい理由にしちゃっているだけだったりするんです。
私にとって「それが『何』なの?」という、この質問を自分に投げかけることは結構強力でした。そして、これによって、随分冷静さを取り戻せたように思います。
冷静になって、感情の虜になっている状態から自分を解放させることで、馬鹿みたいに悩むことも少なくなりました。そして、ただの自分の“こだわり”だとか、そういうどうでもいいことに囚われて膨大な時間を無駄にすることも少なくなりました。
くよくよして悩んだりしていることから解放されて、冷静さを取り戻すことは、「自分の人生」を取り返すことです。
生きる上で、これ以上に重要なことがあるでしょうか。
自分がいかに大変かを自分に説明しないこと
それが『何』なの?の質問で、冷静さを取り戻すことは、この質問の使い方の一つであるのに対し、もう一つの回答があります。
それは、“それが『何』なの?”の『何』を丁寧に説明することです。
自分がしようとしていることがいかに重要なことか、そして自分がいかに大きな問題を抱えているかを自分に力説するような用い方です。
断言できます。
これでは、決して解放はされません。
それどころか、悲劇のヒロインになって、ますます自己憐憫と自己欺瞞を増幅させることになります。
誰も、どれだけ「大変か」を聞いていないんです。自分以外の誰もそれを聞いていないどころか、「自分」すらもそんなことは聞きたくないんです。
なぜなら、それはこれから歩もうとする未来に大きなブレーキをかけるだけだから。生きようとしているのを必死で止めるようなものだからです。
不幸を拡大させてしまいます。
自分の問題がどれだけ大きいのかを受け止めてもらえたり、明らかにすることで、一時的な慰めが、得られることもあるかもしれませんが、所詮、一時的な慰めです。
一時的なものにいつまでも頼っていては、一生、ジェットコースターのような人生から抜け出せません。
自分がいかに大変かを自分に説明しないのは、自分のため。
そして、“それが『何』なの?”の質問で、「なんでもないや。どうでもいいやそんなこと!」と思うのも自分のためです。
負けるが勝ち。まさにそんな感じだと思います。