「手から離す」ことについて
アルコール依存症の問題は、家族にとっては、大きな問題です。
回復するかもしないかも、相手が取り組むこと、
としっかり切り分けるのは、難しいものがあります。
Noutiは、アルコール依存症という大きな病気に対して、
なかなか「手から離して神に委ねる」ことができませんでした。
Nouti自身が、アルコール依存症のために、何かしても、
どうにもならないことは、「心」ではわかっていても、
「頭」はいつも、何か焦燥感に駆られていました。
Noutiがしていた最大の誤った考え方は、
「手から離す」ということは、
「何もしない」ということと同義だ
と捉えていたことです。
Noutiのようなコントロール癖の強い人間にとって、
「何もしない」ということは、死ぬほどに難しいことで、
他人の問題は、他人の問題だからと、しっかり境界線を持って、
「手から離す」ことにものすごい抵抗を感じていました。
ただ、こうした自分の解釈と理解は、
実は随分と間違っていて、
「手から離す」=「何もしない」
はとんでもない誤解だったと気づきました。
「手から離す」ということは、
言葉通り、
他人の問題から手を離す
いうことです。
文字でこうやって、
他人の問題から手を離す
と見ると、ものすごい解放感があります。
他人の問題から、手を離すとどういうことが起きるかと言ったら、
両手が空くんですね。
その両手を使って、今度は何をするかといったら、
自分ごとをするんです。
Noutiの場合、そこには、音楽が入りました。
楽器が入りました。運動が入りました。仕事が入りました。
友人との交流が入りました。
空いた両手を使って、
「本当はやりたいな〜。」
って思っていたこと、
「いつかはやれたらな〜。」
と思っていたことが少しずつ始まっていきました。
アルコール依存症の問題から、
「手から離す」ということは、
ちゃんと自分ごとに手をつけることと同義語です。
逆に、
「手から離す」ことができないならば、
いつまで経っても、自分の人生をスタートできません。
「手から離す」という言葉に、恐怖すら感じ、
「手から離す」という行為に敗北感と、絶望すら感じていたNoutiに、
全く違った光を見せてくれ、
「手から離す」ことによって、自分の人生を徐々に取り戻していけていることに、
感謝です。