結局はどっちなの?
自責の念が良くないとわかっていても、
どうしても、ああしていれば、こうしていれば、こうはならなかったのではないのかと、自分の行動を責めてしまう癖は、随分となくなりましたが、
それでも時々顔を出すことがあります。
自責は全く生産性のないことだとわかっていても。
アルコール依存症が、病気だとわかってから、自分の中であらゆることが整理できて、すごく解放された気持ちになったことを今でも覚えています。
私がアルコール依存症にしたのではない、私の行動や言動によって、他人をアルコール依存症にするのではないと。
でも、それと同時に、自分のやってきたことが、回復の邪魔をしていたかもしれないという言葉も、その後には大抵セットについてきて、やっぱり私の行動に問題があったわけ?
と疑問が浮かび、結局どっちなの?と答えのない答え、問うべきでない問いが頭の中をぐるぐるしたことが、何度もありました。
この、どっちかはっきりさせたいというのは本当に自分の中にある性分で、もちろん、時と場合によって、使い方によって良い素質でもあるけれど、この件においては、自分を苦しめかねない考え方であると今は思います。
結局はどっちなの?的な見方は、勝敗をつけさせようとするようなもの。その裏には、結局自分が悪いのか、相手が悪いのか、それをはっきりさせたいという思い。そして、そのもっと裏には、自分が悪いなんてことになったら、そんなの受け入れられないという恐れと不安が隠れていたんだろうなと思います。
色々な本や、厚生労働省のウェブサイトや、精神科の病院が言っている、アルコール依存症は病気である、これは正解であり、家族の在り方が回復を妨げてしまうこともある、これも正解。
今は、ちゃんとそのことを受け入れようとしているなと思います。
どっちも正解。そして、どっちも悪くない。
だって、それぞれ自分なりに一生懸命に生きてきている中で失敗してしまったこと、うまくいかなかったことがあった・・・そんなこと生きていれば当たり前のことだし、物事を悪くしようと思ってやっている訳じゃあくて、その時その時は、小さな頭でベストと思うことをしてきただけなんだから。
瞬間、瞬間で、精一杯だったんだから。
私にとって、呆れてしまうほどの真面目な夫も、人に対して断れない夫も、他人の心無い言動にひどく傷つく夫も、彼は彼で一生懸命だったんです。
そして、失敗が許せなくて、完璧主義で、理想を求めて、うまくいかないということが全然受け入れなくて、常に成長していたいと思う私も私で、一生懸命だったんです。
それだけ。
大切なことは、学ぶこと。責めることじゃない。
過去を受け入れることもしなくていい。
嫌なことは嫌。
好きなことは好き。
過去からちゃんと学んでいく。次の自分に変わっていくために。
学んだところで、またうまくいかないこともある。そんなの当たり前。
人生は試行錯誤の連続。
毎日が練習、そう思って今も生きています。