アルコール依存症に対して、無力
私は、「アルコール依存症に対して、無力である」ということが「絶望の言葉」から、「希望の言葉」に変わるまで、随分と時間がかかりました。
私はアルコール依存症に対して、何とかできるとずっと思っていましたから、無力なんてものは受け入れたくなかったし、そんな言葉を受け入れてしまったら、まるで自分の存在価値が減ってしまうではないかと、無意識の中で恐れていたのですね。
今思えば、私がどれほどアルコール依存症に囚われていたかがよくわかります。
私はとても前向きな性格で、楽観的な性格です。物事をより良くしようとする原動力がとても大きい人間だと自覚しています。
これは私の良い資質ではあるけれど、時に、コントロールできない問題について、この資質が適用されると、無理が生じ、ストレスが生じ、私の精神を狂わせてしまいます。
このことも、アルコール依存症の夫と出会って、痛いほど知りました。
アルコール依存症に対して無力であるというのは、今は希望の言葉でしかありません。それは、私が彼をアルコール依存症にしたのではなく、私によって、アルコール依存症が治るわけでもないということははっきりしているからです。
つまり、私はアルコール依存症という鎖を断ち切って、完全に解放しちゃって、大丈夫なのです。
自然と解放されるじゃなくて、解放しちって大丈夫、解放するのも何だか能動的なようなものの気がします。
まるで鴨を放つように、虫を逃してあげるように。
他でもない自分自身が痛みを握りしめていたわけですから。
事実、アルコール依存症の夫が、全く私の範疇でないところで起きたことがきっかけになり、アルコール専門病院に繋がったこと、そして、入院中も、私は面会など一切出来ず、私と全く関係のない場所で回復が進んだことからも、皮肉にも、夫の回復に、私は一切入ってなかったんですね。
もちろん、夫婦ですし、互いの人間関係は支え合って、愛し合って、良いものにしていくことがお互いの心身にとって間違いなく良い方向に向かうでしょうが、アルコール依存症が寛解になるか、ならないか、そこには、ある意味、神の領域というか、私が決して立ち入りできない領域があることを心得ています。