「見捨てられない」性質の裏にあるもの
最近、Twitterの更新ばかりしていて、ブログを全然書いていなかったのですが、ちょっと文章で書きたい思いが出てきたので、今日はブログに起こそうと思います。
私の性格というか、性質というか、習性というか、言葉はよく分からないのですが、特徴の一つに「見捨てられない」というのがあると思うんです。
これはどういう意味かというと、「(感情的に)見捨てられない」という意味です。
人に対して、たとえ距離を持ったり、もう関わるのをやめようと思っても、なぜかしばらく経つと、自分から寄っていく自分がいたり、心の中では、結構その人のことを考えたりするんです。
職場の人とか、友達とか、家族とか親戚に対しての私の反応を観察すると、確かにそういうのがあるなと思います。
もちろん、全員に対してはではなく、特定の人に対してです。
そしてその特定の人というのは、どちらかというと、私に攻撃をしてきた、もしくは攻撃をしてくると私が感じた人なんですね。
つまり、この人との関係はもうないわ〜と自分が思った人に対して、より強く「(感情的に)見捨てられない」を思ってしまうんです。
今、客観的にそれを考える時、アルコール依存症の夫に対しても同じことをしていたんだろうなと思います。
夫は飲んでいた頃、結構、私を攻撃してきました。まあ、被害者ぶるつもりはさらさらありませんので、私自身も、結構、彼を攻撃していたと思います。
そのような関係であって、色々と心身共に疲弊し、傷つき、というのがあったのですが、それでも夫のことを「見捨てられない」んですね。
まあ、今は過去形ですから、見捨てられなかったんだと思います。
どうしてそうなのかなと考える時、やはり自分の中で、見捨てないことで自分の価値を感じようとしていたのかなと思います。
元々、すごく自己肯定が低くて、自分に価値をあまり感じられないタイプでしたから・・・(ここで、でしたから・・・とか書いていますが、これも後々になってそう分析しているだけで、渦中にいるときは全くそうも思いませんでしたけれど)・・・
だから、人に対して、特に私にとって問題のある、課題のあると感じた人に対して・・・それはつまり自分を攻撃してくるような人であるんですけれども、そういう人に自ら寄っていく、いい言葉を使うなら、寄り添うでことで、自分の価値を一時的に感じようとしていたのかもしれないと思います。
私にとってのアルコールだったのかもしれません。一時的に麻痺って、自分に酔える、自分に対して、一時的に、自分はとてもいい人、価値のある人、見捨てない人、どこかヒーローぶってというか、献身的というか、何かそういうようなものを、当時は言葉にすらできませんでしたが、何かしらの快感物質を感じていたのではないかと思います。
そして、これに気づいた今は、やはりその快感物質は、アルコールと同じ、自分には本当は毒であるけれども、自分を麻痺させるためのものでしかなかったと思うわけですから、これに対してはやはり取り組んでいかなくてはいけない・・・つまり、問題のある人に近づいていこうとすることで、自分に擬似的に価値を感じようとするようなこの習性に対して、取り組んでいかなくてはいけないと思うんです。
ゴールとしては、自分が既に、自分をしっかり肯定すること、自分の価値を、自分の素晴らしさをちゃんと自分が内側から感じてあげることだと思います。
いつの日か、自然に自分が自分をちゃんと肯定できる日を目指して、生きていきたいと願います。