依存症者の言動に落とし所(納得感)を見つけようとする家族
アルコール依存症者が、自分のなすべきことを知っているかということについて、答えはイエスであり、ノーであると思います。
家族は、アルコール依存症者が、本人がなすべきことを知っていながら、できないとみることもできるし、そもそも本人がなすべきことを、本人自身がわかっていない、知っていないとみることもできます。
家族は、どうして、アルコール依存症者がこんな自己破壊的行為を続けるのかを、全く理解できなくて、どうにかして、自分の中で落とし所を見つけようとすることがあります。
その中には、「彼は病気なんだ。本当はやめたいのに、やめられないんだ。」「彼は、そもそも断酒したくないんだ。お酒を飲みたい、飲みたい理由があるからやめられないんだ。」などなど。
何か、ことが起きるたびに、そして、それが特に、自分の理解の超えたもの、不可解なものであればあるほど、私たちの思考は行き場を失い、何とか納得しようと、理解しようと、落とし所を探すんだと思います。
ただ、注意しないといけないのは、その落とし所は、間違っているかもしれないということです。一瞬、自分の中に、納得感を見つけ、何とか前に進んでいくためのエッセンスに見えるかもしれませんが、所詮、自分自身の思考であり、真理は何か、まして、本当はアルコール依存症者の中に何があるのか、誰も、本人さえも、分からない事もあるんです。
落とし所は、間違っているかもしれない、誰も、相手の問題に対して、◯◯だから、こうなんだと、言えないんだと知り、結局自分のことしか、取り組めないということをよく理解することはとても大切だと思います。
夫の過度の飲酒の中で、私も何度か壁にぶち当たり、何度も、自分なりの落とし所を設定してきました。でも、蓋を開けてみれば、全然、間違っていた、私の空想でしかなかったなんてこともあります。
分からないことは、分からないとする・・・これはある意味少し、勇気が必要かもしれませんが、物事をフラットにみるためには、とても大切だと思います。