夫を尊敬するという決断
私は、飲んでいる彼は「尊敬できない」けれど、「飲んでいない彼」は尊敬できると思っていました。
ただし、この基準は、「飲んでいる」「飲んでいない」に留まらず、あらゆるところに適用され、それは際限がありませんでした。
私は、怒る彼は「尊敬できない」けれど、「怒らない彼」は尊敬でき、身体に良くないものばかり食べる彼は「尊敬できない」けれど、身体に良いものを食べる彼は、「尊敬できる」、毎日目覚ましを止めて、二度寝し続ける彼は「尊敬できない」けれど、目覚ましよりも先にパッと起きて、1日を始める彼は「尊敬できる」などなど。
もう、書き出せばキリがありません。
私は、常に〇〇の条件のもとでは、「尊敬できる」、△△の条件のもとでは、「尊敬できない」を延々とやり続けていました。
そして、その条件に常に振り回されていたし、結果私は傷つき、苦しむことになりました。
ここから脱出するためには、一部の条件を取り除くことではありませんでした。何か、人を裁く心が残っていると、それは一瞬にして、あらゆることに適用されてしまうことを学びました。
私がしたことは、「夫を尊敬する」という決断、それだけでした。
夫が夫であることを尊敬するというのは、彼のありのままをそのまま受け入れる練習でした。
気づいたことは、私が、夫をありのまま尊敬し始めた時、他でもない私がどんどん穏やかになってきました。
なぜなら、夫を、どんな状況であれ、ありのままを尊敬するとなれば、私もどんな状況、どんな私であれ、ありのままを受け入れられるかも知れないという思いになったからです。
夫を裁き続けていた時は、私は他でもない自分を裁き続けていました。夫に対して持つ基準以上に、私が自分自身に対して、非常に厳しく、辛く当たっていました。
人が自分を傷つける以上に、私が自分自身を傷つけていました。
夫を尊敬する決断は、私が私自身を受け入れ、私が私自身を尊重するという流れに変わっていきました。