「病気だから仕方ない」という考え方について
私は、アルコール依存症の夫に対して、長い間、
「病気だから仕方ない」という考え方を持つことができませんでした。
アルコール依存症は病気だと知ってからも、そのような考え方を持つように対して、
頭では努力しましたが、腹に落とし込むことがなかなかできませんでした。
なぜ、それができなかったかというと、私が、この
「病気だから仕方ない」という考え方に対して、とてもネガティブな解釈をしていたからです。
私にとって、「病気だから仕方ない」という考え方は、
諦めであり、絶望であり、現状が良くならない
という意味でしかありませんでした。
これが私の解釈でした。
私の中には、絶えず、病気に勝たなくては、病気を乗り越えなくてはと思っていました。だから、「病気だから仕方ない」は受け入れられなかったんです。
でも、今は、「病気だから仕方ない」という考え方に対して、
相手を受け入れ、理解し、寄り添う気持ちにさせるものに変わりました。
私の解釈が変わったんです。
以前の私は、自分が、「病気だから仕方ない」とは思わないことによって、
現実、病気で苦しんでいる相手を、病気じゃないように思いたいだけでした。
つまり、結局は自分が思いたいように、相手になってほしいという願望を強く持っていただけでした。
相手が問題を抱えているのに、その相手の問題を、自分が見たくないから、
問題のない相手であってほしいと、自分の心の中で思おうとしているだけでした。
そして、そのような態度は、当然、相手にとっては負担になりました。私の目に見えない圧力が常に働くからです。
私は、自分が「病気だから仕方ない」とは思わないことを正当化するために、相手だって、病気でありたくないと思っていると言う事実を利用しました。
ただし、ここに大きな罠がありました。
病気でありたくないことと、事実、病気であることは違います。
夢と現実は違います。
もちろん、相手は病気ではありたくないけれど、事実、病気なのに、
周りの人からは病気と見られず、勝手に他者の理想像を常に当てはめられるのは、負担以外の何ものでもありません。
夫はアルコール依存症でした。
夫自身、否認していました。
でも、本人も薄々とは、自覚していました。
病院に入ってからは、毎日自覚する日々を歩んでいました。
一方、私はいつも夫を否認していました。
夫は自分自身のことを、30%はアルコール依存症かななんて思っていながらも、
70%否認しているのに、
私は、病気だから仕方ないという考え方を一切拒むことで、
100%否認していました。
やめてほしいなどど口では言いながら、病気を認めませんでした。
当事者ですら、否認する病気なのに、それでもって、身近な家族の人からも、否認されていたら、当の本人がやめるにやめられなくなるのが良くわかる気がします。
お酒をやめてほしいと泣き喚くことが、実は、病気を否定していて、そして、家族の病気を否認する態度が、当事者の否認をますます深めるなどとは、当時は全く思いませんでした。
病気だから仕方ないという態度は、受容だと思います。
つまり、現実をありのままに受け入れるということです。
私は現実に直面する勇気が本当になかった、だからいつも、生きていながら理想の中に生き、でも、実際に生きる環境は現実ですから、現実が理想と一致していないことに、ひどく葛藤していたのだと思います。
理想の中から出て、現実に生きるようになったら、随分と楽になりました。
その一つが、もちろん、
病気だから仕方ない
という考え方でもありました。
現実は、残酷ではなく、ただ事象としてそのことが起きているだけです。
本当の残酷は、本当はこうではなかったのにという思いのフィルターを通して、現実を見ることです。
私は今日も現実に生きていこうと思います。