アルコール依存症という病気で苦しんでいることを隠したかった私
私は、自分の家族がアルコール依存症であるというのを、家族にも、そして身近な友人にも、ずっと隠していました。
下記の記事でも書きましたが、隠していたので、助けを求めるということは全然できませんでした。
アルコール依存症に対して、恥の意識が強くて、助けを求められず、平然を装っていた私 - アルコール依存症:Nouti思考のNoutiブログ
どれくらいのレベルまで隠していたかというと、かなりのレベルだと思います。
私は、たまたま話していた人が、何かの会話の流れで、生い立ちの話になって、アルコールに苦しんでいた過去があるというのを話してくれたことがありました。普通なら、そんな告白を聞いたら、チャンスと思って、私は・・・とでも言えそうですよね。でも、私は全く言えませんでした。それぐらいのレベルでした。
共通の問題を抱えた人、もしくは過去に経験したことがある人に対しても、安心して心を開けない・・・私の隠したい気持ちはとっても強力だったんです。
今でも覚えているのですが、その人と話をしたときに、自分のことを言いたい気持ちが、すごく高まっていて、のどの方までやってきたというのは事実です。でも、あと一歩、実際に声にして、話すということは、当時はできませんでした。
私の場合は、アルコール依存症という病気、そのものを隠したかったというよりかは、 アルコール依存症という病気によって、起きた様々な弊害を隠したかったわけです。
アルコール依存症そのものよりも、アルコール依存症の話をすると、そのことで起きた様々なことが、「自動的に」連動してしてしまって、切り離すのが非常に難しかったです。
例えば、私の夫は、飲んで激しく自責の念に陥ると、人生に対して絶望的になります。全てがどうでもよく感じると、扉を叩いて、扉に完全に穴を開けてしまうこともありました。
夫がやったことだから、知らないってくらいに線引きができたら良かったかもしれませんが、私にはできませんでした。
私には、やっぱり、自分の家の扉なので、自分ごとでした。賃貸の物件でしたので、直す必要がありました。もちろん、修理の人から、「どうして穴が開いたのか?」などと、聞かれるはずもありません。
ただそういう問題ではなくて、別に聞かれようが、聞かれまいが、「この私が、十分すぎるほど理由は分かってる。」という事実が、非常に重いわけです。
こうした現実に対して、一つ一つ直面していかなくてはいけない。できることなら水面下に置いておきたかったものが、明るみに出されるような気がして、心が引っ張られるような、決して心地いいものではありませんでした。
隠しておきたい気持ちや、できれば人様に知られたくないという思いは、助けを求めることをどんどん遠ざけます。
ただ今1つ分かってることは、アルコール依存症という病気は、進行性の病気です。
なので、症状は、放置しておけば良くなるものではなく、むしろ悪化するということです。
そして悪化すればするほど、事態は非常に良くない方向に進みます。結果、隠さなきゃいけないものも増えてきます。そうなると、益々助けを求められなくなるという、悪循環に陥ります。
もっと早い段階で 、そこまで悲惨でない状態で、もっと軽い気持ちで、助けを求めることができていたらと思います。そうすれば、恥の思いもそれほど大きくはならなくて、助けを求めやすかったかもしれません。でも、それはできなかった。でも、できないくらいまで隠したから。堂々巡りですね。
私たち夫婦の場合は、私も夫も、本当にもうどうにもならないっていう状態にまで陥ったと思います。それでようやく夫は病院につながって、私も助けを求めることができました。そこに至るまで、沢山の犠牲と損失があったし、非常に不器用な生き方をしていきたことを、今は認めています。
私がここで言っている助けを求めるというのは、何かのグループに入って、人と繋がるとか、本を読むとか、YOUTUBEを見るとか、人の話を聞くとかではないです。
誰か「私は、夫のアルコール依存症のことで感情が振り回されていて、とてもつらいです。」と言える相手が一人でもいるか、ということです。
そして、「私の夫は・・・大変です。」ではなくて、「私が・・・大変です。」と言えるかということです。
アルコール依存症の当事者を責めるわけでも、悪口を言うわけでもなく、ただ、自分の現実がつらいということを、ちゃんと自分の口に出すということです。
私は、夫と出会う前から、どこかいつも、スピード重視でした。また、効率重視でもあって、依存症を知ってからも、「お酒なんてとっととやめて、とっとと生活を立て直そうよ」っていう 急げ、急げのマインドでずっと生きてきました 。一見、ポジティブなんですけどね。でも、急いでいただけです。
「早くお酒をやめてほしい」とずっと思い続けていた私 - アルコール依存症:Nouti思考のNoutiブログ
こうやって急げ、急げのマインドで生きてきた人間が、助けを求めないという、一番時間のかかる方法を選んだということ自体が、すごく生き方を考えさせられました。人の助けを求めないことは、急げどころか、遠回りです。
助けを求めることを邪魔していたもの?プライド、恥、見栄、自己過信・・・様々です。別の記事でまた書きたいと思います。
今は、落ち着きと平安のある毎日を、非常に大切にしています。以前よりも時間の流れは、かなりゆっくりになりました。
以前の1日というのは、すごくバタバタしていました。ものすごくたくさんのことをやっていたようにも思いますが、同時にものすごく喧嘩もありました。家の中でドラマがありすぎて、心の平安がほとんどありませんでした。色々やっているようで、実は何もやっていない、そんな空っぽな気持ちがいつもありました。
そのような状態だったからこそ、頭で理解していたつもりの、助けを求めるという余裕すらもなかったのかもしれません。
今、日本も含め、海外も、アルコール依存症に対する理解というものは、どんどん進んできています。
アルコール依存症は病気です。助けを求めれば、本当に助けてもらえます。
人は1人では生きていけないという、何度も何度も聞いてきたこの陳腐な言葉が、この病気に出会ってから、本当に心に刺さります。
私は1人では生きていけません。
私は人とつながる必要があるし、私は人に助けを求める必要があります。人生の中で起きることを、全てコントロールすることは決してできませんし、自分のコントロールを超えたことがやってくることもあります。
でも、人に助けを求めるというものは、自分が主導権が思っていることです。つまり、自分がコントロールできることなのです。
だからこそ、独りにならず、一人ぼっちにならず、勇気を持って、助けを求めるということを、これからもちゃんとやっていきたいと思います。
いつもお便りをありがとうございます。すごく励みになります。
ブログに関するメッセージやご質問などは、Noutiブログへのメッセージからお願いします。お待ちしています。