アルコール依存症は恥!?
私の中で、夫の問題を苦しむ原因となった一つとして、「アルコール依存症は恥」という考えがありました。
いわゆる世間体です。
正直、今でもアルコール依存症は恥だと思っています。アルコール依存症は、良いか悪いかといえば、「悪い」し、あったほうがいいかない方がいいかといえば、「ない方がいい」し、恥か恥じゃないかといえば、やっぱり「恥」です。
このスタンスは変わりません。
アルコール依存症に対する理解が深まったので、昔のように、アルコール依存症に振り回されることも、アルコール依存症をどうしようもない人みたいに見ることもほとんどなくなりました。
でも、「アルコール依存症」そのものについては、Noutiは相変わらず、というかこれまで以上にひどく憎んでいます。
人間をここまで破壊するものを愛せるわけありません。死ぬまで変わらないと思います。
アルコール依存症は恥!?の裏にあったもの
私がアルコール依存症は恥だという考えに囚われて苦しんでいた時は、「アルコール依存症は恥」の裏にあった自分の考えが見えていませんでした。だから、すごく苦しかったです。
でも、実は、アルコール依存症は恥のその先に、「こんな夫と結婚している私が、恥!」という考えがしっかりあったのです。
正直、大変失礼ながら、子供や親のアルコール依存症の問題なら、「そっちの方がましじゃん」とか、「それならまだ人に公言できる」くらいの気持ちを持っていました。
子供や親となると、自分で「(相手を)選んだ」わけではないので、「本当にかわいそうだね、大変だね」と、思えるけれど・・・配偶者の立場になると、あえて、「アルコール依存症者」を自分で選んで結婚しているので、「バカじゃないの?」みたいに思われるんだろうな・・・なんてことを思っていました。
結婚相手の選択の自由意志が与えられている中で、アルコール依存症者を選んだみたいなレッテルを自分で貼っていたので、恥の意識がものすごく強烈でした。
「なんで離婚しないの?なんで別れないの?」「というか、アルコール依存症と結婚したあなたはバカなの?」と誰もそんなことを言わないのに、他でもない自分が、自分にささやくのです。
これが私を苦しめていました。
Noutiが「恥」から解放された訳
こうやって、「アルコール依存症は恥」という考えは、実はアルコール依存症そのものに対してではなくて、「自分を恥じている」に過ぎなかったとわかった時、少しずつ、見方が変わってきました。
そして、「自分を恥じる必要などどこにもない」と本当に心からわかった時に、私は解放されました。
どうして、「自分を恥じる必要などどこにもない」と思えたかというと、素直に私は夫を「愛する」ことを選んだからです。途中別居になろうが、どうなろうが、覚悟を持って選びました。
それは夫がやっぱり好きだったからです。
人が人を好きになるということに、恥など何にもありません。このことを心から受け入れられました。この人が好きなら、好きだと自信を持てばいい。それをああだこうだいうなら、それはそういうことをいう人の問題であって、人を好きになることに何にも悪いことではないのです。
中途半端な愛では恥になる
大量殺人を犯したある死刑囚を死ぬまで励ましていた人がいました。人によっては、そんな殺人犯の味方をするなんて、頭がおかしいのではないか…なんていう人間だ…と思った人も沢山いたでしょう。
でも、その方は、死刑囚だろうが、過去にどれほど大きな罪を犯そうが、一人の人として、尊厳を持って接することに決めたに過ぎなかったと思います。
人を好きになる。本当に愛するというのは、生半可な気持ちではできません。半端な愛では簡単に「恥」に転落します。
愛には責任が伴います。強さが必要です。
途中でやめるような中途半端な愛ではなくて、本当にその人を心から愛する決心をして、愛し続けるなら、「人を愛する」ことに、何の恥も見えなくなります。
恥はなくなっても、問題は山積みです。でも、恥と思っている間は問題に向き合うか逃げるかを迷っています。踊り場で足踏みしているようなものだから、愚痴、泣き言だらけです。
恥でないなら、問題に向かい、乗り越え、成長する道を選びます。だから、愚痴、泣き言はなしです。
Noutiはこれからも堂々と、夫を愛し、その夫の妻である自分を大切にします。
(Noutiのスタンスはここにまとめています。noutiのスタンス - Nouti-アルコール依存症の家族)