アルコール依存症:Noutiブログ

脱アルコール依存症の病気:のうてぃ思考のNoutiブログ

今日1日だけ、依存症者の領域に踏み込まないこと!元アルコール依存妻のうてぃが、依存から自立へライフチェンジを目指す日々。自立して生きることを始めよう。Think Simple。

自責の念に苦しむのをやめて

こんにちは。noutiです。

 

今日は、真夏日でした。外を歩いていたら、汗がダラダラと出てきました。

 

昨日、ネットフリックスで「ルイ・セローが見た慢性アルコール中毒者たち」を見ました。

 

アルコール依存のドキュメンタリーを見たのは、初めてでした。少し残念だったのが、入院患者や、病院に通院しているのみのアルコール依存者がメインで、病院すらもいかない、日常のアルコール依存者があまり取り上げられていないことでした。

 

でも、これを見てすごく良かったです。

 

特に、一つの家族の回復例をあり、ああいうのを見ると単純に、希望が芽生えます。希望は力です。

 

私の夫が実はアルコール依存症者だと知った時は、私は結婚前でした。

 

結婚する前は、私は自分の仕事に忙しく、夫のことなどあまり構わず、お酒のことにも気づきませんでした。

 

どうして、こんなに理不尽なことを言われなくてはいけないのか、この喧嘩は喧嘩としてそもそもおかしくない?とか、喧嘩するレベルのことではなくない?と思うようなことも多々ありました。

その時は病気のことを理解していないので、真っ向からやりあっていました。

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自責の始まり

夫は実は、アルコール依存症と知り、夫が病気で苦しんでいるとわかると、自然と、「どうしてこうなっちゃたんだろう・・・」と思うことが多くなります。

 

思わないほうが無理で、やっぱり理由探しの旅に出てしまいます。

 

私は以前は、ずいぶん自責の念に苦しみました。

私があの時、「あんなことを言わなければ」とか、「ああいう態度を取らなければ」とか、「あそこに行かなければ・・・」とか。

 

なんでこんなことを思うかというと、目の前で起きているアルコール依存症による戦いが激しすぎて、それに気づく前にあった小さなやりとりやちょっとした喧嘩をした過去がこの上なく小さく、とるに足らなく見えちゃうんです。

 

その時はもちろん、まっとうな理由があり、一生懸命だったにもかかわらず。

 

時系列でちゃんと考えれば、深いレベルの苦しみを経験したからこそ、浅いレベルの苦しみなど、とるに足らないと感じるだけで、それも時間が経過した今だからこそ、思ってしまっているだけです。

 

人間だから、精神的な成長と訓練によって、このように過去の争いなんてとるに足らないと思ってしまうこと自体は自然です。でも、「ただ思ってしまう」だけじゃなくて、「それを自分の責任だ」と結びつけることは、すごく危険です。

 

確かに色々なことはあったけれど、アルコール依存症という病気に責任関係はありません。

 

残業のしすぎで、過労死した社員を抱える会社の人事部で、1次面接をした人が、「あの時、あの人を採用しなければ、死ななかったかもしれない・・・」と思っているのと同じくらいのレベルで、責任関係はありません。

 

つながりがあるか、関係性があるかと言えば、確かにそうだけど、そうじゃない。

というのも、そこに責任関係を認めるならば、2次面接した人は?その上司は?家族は?その人の部署を選んだ人は?周りの同僚は?と可能性が無数に出てきます。

そうすると、人間関係全部否定しないといけなくなるわけです。

 

自責は傲慢

自責は、誤解を避けずに言うなら傲慢です。そうじゃなくても、そう思った方が、いいです。この考えの方が、自責から離れさせる力になります。

 

「私がこうさせてしまったんだ。」という自責の念は、まるで、自分の関わりによってすべての現実を作ってしまったかのような、現実あり得ない発想です。人を精神的破壊にまで追い詰めるほどコントロールできる人はいません。

 

神様でもあるまいし、一人一人が自由に生きる権利がある中で、私はその中の関わり合いの一つにすぎません。

 

振り返ったら、確かに、「あのこと」と「あのこと」は避けられたとしても、本人にその問題がある限り、別の人によって、別の機会によって、どちらにしろ同じことが起きます。

 

だから、自責はナンセンスです。見ている視野が小さすぎます。

 

私は自責の念から解放されて、初めて、「アルコール依存症を本当に病気なんだ」とようやく受け止めることができ、回復の道を歩み始めることができました。

 

自責は、自責の念を抱く本人を苦しめます。

そして結局、「防げたかもしれない症状」かのようにアルコール依存症者を見ることによって、さらにアルコール依存症者への憎悪や、いつまでの回復できないことに苛立ちにもつながり、そういう気持ちで接すること自体が、回復どころか、病気の進行させてしまいます。

 

だから、自責にいいことなんて一つもありません。

 

「過去は過去。過去は変えられない」とか、そういう話ではなくて、「この病気が、自分のせいだ」、と思うこと自体が間違っていることであり、傲慢であり、真理に反しています。

 

もしそれが正なら、世の中の人は、全員自責に、苦しんでもらわないといけないことになるくらい、人間関係を否定し、アルコール依存症者の生きる権利や尊厳も奪います。

なぜなら、人との関わり合いがうまく持てず、傷つきやすく、お酒に頼るしか道を見出せなかった本人に問題(病気)があるのに、それを全て他人のせいにして、その人と関わったことが悪い言っているようなものだから。

 

人間関係のない人生は死ねと言っているようなものです。

 

そんなメリットどこにもありません。

 

解釈はいくらでも変えられて、思おうと思えば、すべてを人のせいにすることもできます。でもそこに幸せがないことがわかっているから、多くの人はしません。

 

それと同じで、アルコール依存症の相手を前に、私ののせいだと自責に苦しんだところで、何のメリットもありません。むしろ不幸を招くだけです。

 

役に立たない自己犠牲、自分を苦しめる自責を完全に捨ててください。

 

アルコール依存症は病気です。

 

本人の心の(精神の・脳の)病です。