そして、家族も「否認」という病気
こんにちは。noutiです。
念願だった早起きが定着しつつあります。目覚まし時計なしで起きれるようになりたいと思っていて、日々練習を繰り返すうちに、起きられるようになりました。
不快な目覚ましの音に起こされる代わりに、自分でさっさと起きちゃって、携帯の目覚ましの設定を消せるのは、とっても気持ちがいいです。
なんでも、練習です。1発でやろうと思わないで、根気よく繰り返せば、できるようになることは沢山あるんだなと気付かされます。
アルコール依存症は「否認」という病気
アルコール依存症は「否認」の病気と言われています。本人がいつまでも、飲んでいる自分、飲まざるを得ない自分を「否認」し続けます。「否認」し続けるから良くなるものも簡単に良くなるわけがありません。
どんなことでも、改革や改善には、「問題認識」ありきです。ここが問題だとわかり、認識するから、変えようとする。その結果のできたできなかったはまた別の問題であって、まずはこれが問題だ、重大な問題だと知り、認めることが全てのスタートです。
アルコール依存症は、このスタートのきっかけになる問題認識を「否認」し続けるので、回復がものすごく難しくなります。アルコール依存症の病気の根本は、この「否認」にあると言ってもいいほど、これによって、いつまでも繰り返されるループの中で、壮絶な苦しみを何度も経験することになります。
家族側の「否認」という病気
アルコール依存症は確かに「否認」の病気ですが、それと関わる家族も実は、かなり「否認」の病気に陥っています。私は、長い年月、夫のアルコール依存症と関わってきましたが、それは回復どころか、私の「否認」によっても、その問題をむしろ重症化させていたことが、本当に最近になって、わかりました。
そして、私が「否認」をやめて、この病気を真摯に認め、私自身の回復に努める時、初めて、夫もアルコール依存症から回復するスタートに立つことができました。
家族の「否認」とは、家族がアルコール依存症でありながら、それを100%認めていないことです。もちろん、色々な理由があると思います。
私自身、アルコール依存症の家族などということは、心底「恥」と思っていました。人様に言えることじゃない、だいたい、「酒に溺れている」と言う表現、その音(おん)自体が、人間として堕落的であると言う連想が私の考えにこびりついていて、いつまで経っても、アルコール依存症を一つの病気として認識することができませんでした。
それでも、自分が苦しいから、「病気なんだ、病気なんだ」と心の中で繰り返していましたが、それはむしろ猛烈に、アルコール依存症の夫のことを、酒に頼る自堕落な人間と見てしまう自分があるからこそでした。
情けなさと、やるせなさと、日々起きるバトルと、理不尽さに疲れ、それでも、世間からは孤立し、誰にも言えない悩みを一人で抱えていました。
他のどんな問題のことを人に言えても、アルコール依存症の問題だけは他人に言えませんでした。当事者でなければ、絶対に理解されない・できないとわかっていたことと、そもそもその問題を抱えていることが、「恥」以外の何物でもなかったので、口が滑っても、言いたくなかったのです。
この言いたくない・・・、認めたくとかない、・・・これらはすべて「否認」です。家族がアルコール依存症でありながら、それを認めようとしない「否認」なんです。れっきとした「否認」です。アルコール依存症者は勿論のこと、家族も人のことを全く批判できないくらい、十分すぎる「否認」の病になっています。
「否認」をストップすることで得られるもの
当然、家族側も「否認」をすればするほど、回復どころか、さらにアルコール依存症者と一緒に、奈落の底に突き進むことなります。
アルコール依存症者がどうであれ、アルコールを飲んでいない家族側は、アルコール依存症の回復に一役買うためにも、そして、自ら共に病気になって苦しむことから離脱するためにも、今すぐに「否認」をストップするべきです。
「否認」をやめること、つまり、「彼、彼女は、アルコール依存症なんだ!」と認めることは、すべての敗北のようであり、絶望のようであり、実は、回復のためのスタートに立っています。人間が、問題認識をすることで、はじめて状況を変えようとする以上、「否認」を捨てることは必須の問題です。
認めたくありません。私も、死ぬほど認めたくないし、どうして?と言う気持ちがふと湧いてきました。
でも、私はそんな気持ちをよそに、アルコール依存症を認め、アルコールなしでは生きていけなくなった夫を認め、そして、私もそんな中で、冷静さを失う病気になってしまったことを認め、そして、回復のために学び続け、常に、回復のための今ままでと違う行動をとることを決断をし、実践してきました。
決して、簡単な道のりではありません。そして、何もかもが、一瞬で起こるようなことでもありません。
でも、もう、「私」によってアルコール依存症を盛り上げ、そしてさらに、夫をアルコールから抜け出せなくすることに対しても、少なくとも「私」は貢献しないようになることが、「否認」をやめることによって、可能になります。
可能になります。
認めましょう。わかります(めちゃくちゃわかります)、でも皮肉に見えて、これがスタートです。