過程はどうでもいいんです、結果だけ
こんにちは。noutiです。
8月ももう終わりですね。秋はすぐ目の前です。
アルコール依存症者と日々生活する中で、私にとって、「感謝できること」の基準はだんだんと下がってきました。私はこれは恵みだと思っています。
どういうことかというと、他の人にとってはとるに足らないようなことに目を留めます。今までだったらスルーしていたことに目を留めます。
そして、それが良いこと、感謝できることだと思えるんです。
「感謝できること」の基準が下がる・・・とは、当たり前だと思っていた恵みに気づける目が与えられるたことです。
平穏な日々・・・
今日も命が与えられ、1日を送ることができること・・・
今日も夫婦であること・・・
「何もない」穏やかな日々に感謝できるようになったこと。
アルコール依存症の夫と出会わなければ、決して得られなかった安らぎかもしれません。
アルコール依存症者は日々刻々と変化します。ついこの間泥酔状態かと思いきや、子供のようにメソメソし、そして、鬼のように暴れます。
その変化をまともに受けると、家族は間違いなく崩壊します。
これまで既に色々な経験をしてきた家族は、どうしてもアルコール依存症者に敏感に反応してしまいます。彼・彼女のちょっとした変化に反応してしまうんです。
その中には、「今日も飲んでるかな?」「今日は飲んでないかな?」「今日は減ったかな?」など、本当は考えてはいけない(考えてもどうにもならない)アルコールに支配されるような思考を、絶えず頭の中で繰り返してしまっています。
長年の経験によって、これらの思考は自己防衛的に働いているわけだから、人がどう言おうと、急に「無意識で湧いてくる思考」に対して、一気に蓋をすることはできません。
ただもちろん、そうやって、いつまでもアルコールに囚われていると辛いし、いつまでも解放されないし、何よりも、幸せはそこにはないという事実があるから、少しずつ、少しずつ、この「アルコールに」囚われる考えから離れていく「決断」をするんです。
焦らずゆっくりです。
ここは焦ると大コケします。
毎日が選択です。毎日、毎日、誘惑があるからです。
そしてその決断の中で、時に、アルコール依存症の本人がいつもよりちょっと幸せそうなのを見かけたら、ハッピーになります。彼・彼女がいつもならできないことができて、共に良い時間を過ごせたら純粋に楽しみます。
理由は嬉しいから。理由は楽しいから。
それ以上でも以下でもありません。
今日はアルコールを飲んでないから云々・・・をいちいち考えません。そんなことを毎回、毎回考えている時点で、アルコールから離れる決断を阻害されてしまいます。
今日は絶対に飲んでいるはずなのに、なぜか平和。
なぜか調子がいい。
これももちろんそれで、いいんです。なぜだろう?なぜだろう?なんて考えません。そんなことに分析家になる必要なんてないんです。
飲んでいようがいまいが、結果的に、穏やかな日常ならそれでいいんです。
愛と感謝に溢れるようなとびっきり素晴らしい時間じゃなくても、底の底を知っている家族だからこそ、何も起きていないなら、ひとまずそれで大満足です。
でも、空ボトルはあるけど・・・
でも、お酒を買いに行っているけど・・・
いいんです。
過程はどうでもいいんです。
結果的に、表面的に、問題なく、日々が過ごせているならそれでいいんです。
水面下で寿命が縮んでいようが、肝臓を痛めつけていようが、そんな他人の事情に首を突っ込んでいなくていいんです。
それが事実であるかないかすらもうどうでもいいんです。
目に見えないところでいろいろな問題が起きる・・・それもももういいんです。
家族側が変えられるところじゃないから。
でも、家族が直接的に関わるアルコール依存症者との時間が、今、「穏やか」なら、結果的に「よし」としてみる。
そうすることで、自分の中から「幸せ」を創り出すということが、どういうことなのか、少しずつ見えてくると思います。
そして「幸せ」を創り出すことができる人だけが、周りの人に本当の意味で「幸せ」をもたらすことができるはずです。
解放されましょう。