鎖は外れているのに前に進めないアルコール依存症者
鎖に繋がれた象の話。
サーカス団にいる大きな象の足に鎖が繋がれている。
子象の時は、何度も何度も逃げようとしたのに、それが叶わなかった。
この象は大きくなっても、「自分はこの鎖から逃げ出せない」と思いこんで、鎖が外れたあとでも、逃げようとしない象になってしまった。
この話は大人の象がトライをすることもやめてしまったということが一番のポイントの話。
でも、アルコール依存症者の家族から見ると、むしろ大人より、子供の行動のほうが興味深い。
何度も何度も逃げようとする。
でも鎖が繋がっている。
だから、引き返される。そのうち、足に傷もできる。
それでも逃げようとする。
でもやっぱりダメだ・・・。
そんな小さな象を目の前で見ていたら、きっと私の胸は引き裂かれてしまいそうだけど、毎日見ている夫もまるでそんな子象のよう。
やめたい。
もう最後にしたい。
今日を限りにやめたい。
そんな思いも虚しく、
したくもないのに、アルコールが離せない。
やめたいのに、
憎い相手なのに、
それなしで生きられない。
目で見える鎖はないけれど、
アルコールという鎖が、
彼の心をがっしり捉えていて離さない。
そんなことを繰り返しているうちに、
心も身体もますます疲れ果てていく。
まるで子象の足が傷だらけになるかのように、
彼の心もまた傷だらけになる。
もがいている。
やめたい。
こんな人生を送りたくない。
愛する人を傷つけたくない。
ふと冷静になった時に、こんな思いがよぎる。
でも、離せない。
周りで見ている人は、「離せばいいのに」と思う。
握りしめているその手を離せば、自由になるのにって。
子象と違って、本当は鎖なんてないのだから、
離してしまえばいいだけなのに・・・と。
周りの人には、もちろん鎖なんて見えない。
何にも縛られていなくて、ただ、本人が片意地をはって、握りしめているのが見えるだけ。
だから、はたから見ていたら、「何やってるの?」って気持ちになる。
「何でいつまでも自分を苦しめ続けさせているの?」って。
正直、バカみたいに見える。
愚かに見える。
滑稽にさえみえる。
いつまで経っても、全力で握りしめていて、
そのことによって、色々な被害も目立ってきたから、益々、その行為が愚かに見える。
次第に怒りになる。
そして積もり積もった思いを、ぶちまける。
***
怒るのはよくないけれど、
でも、「目に見えている」ことだけを見て、
「目に見えている」ことだけで判断すれば、
怒りたくなるのは当たり前。
むしろ怒らないほうがどうかしている。
私は真面目に生きている。
なのに・・・ってね。
***
私は何度もこのサイクルを繰り返してきました。
見て、我慢して、溜め込んで、怒る。
もう、自分でも疲れるほど、何度もやってきました。
本当にあの頃の自分は、
体力と気力を、不毛なことに無駄遣いし続けていました。
「目に見えること」だけで全てを見ようとしていたから。
・・・
・・・
日常には、「目に見えないこと」も沢山ある。
例えば空気。目に見えない。
例えば声。目に見えない。
例えば香り。目に見えない。
例えば優しさ。目に見えない。
例えば愛。目に見えない。
目に見えないけれど、大切なものは沢山ある。
一歩下がって、アルコール依存症者を、鎖に繋がれた子象のように見てみよう。
確かに鎖はない。
アルコール依存症者に目に見える鎖はない。
この話では、象は大人になって、鎖が外れされても、
これまでの経験から、自由に動き回らなくなってしまう・・・という流れだけど、
アルコール依存症者は違う。
彼は確かに大人になった。
そして、大人になって、この象とは違って、
子象だった時と同じように、解放されようとしている。
自由に走り出そうとしている。
前に進もうとしている。
鎖は確かにない。
そして、象とは違って、鎖はないこともわかっている。
なのに進めない。
その勇気がない。
一歩が前に出ない。
離せない。
怖い。
前に進みたいのに、出ない。
今日ダメで、明日やってみる。それでも・・・。
鎖はないとわかっているのに。
前に進めばいいだけなのに。
心がズタズタに切り裂けるほどに、
鎖はないとわかっているのに、
それでも、前に踏み出せないという「目に見えない」痛みを、
私たち家族はどこまで理解しているのだろう。