私さえこれをすれば…
アルコール依存性の理不尽な要求に慣れてしまうと、争いや無駄な喧嘩を避けるために、「私さえこれをすれば……」という気持ちになることが何度もありました。
実際、気持ちだけじゃなくて、その時は本当にそう思っているわけだから、「これをすれば…」の「これ」を真面目に取り組もうとする。
でも、もちろん動機は不純。
「私さえ、これをすれば」というのは、「私さえ、これをすれば、丸く収まるんでしょ、暴れないんでしょ、とりあえず、穏やかになるんでしょう。」と少なからず相手への期待がこめられている。
私がしたいからじゃなくて、そのことで相手がどうなるからっていう。
それもそのはず。
そもそも「私さえ、これをすれば」という発想は、どこまでも自己犠牲的であって、対価を支払った以上、それなりの見返りを期待してしまうのは人間のサガ。
でも、この発想に基本いい見返りなんてない。
だって、アルコール依存性者相手に、「私さえ、これをしても」その思惑通りにならないことなんてザラにあるし、そもそも期待通り動いてくれて、±0なんだから、そうじゃなかったら、マイナスのみが残ることになっちゃう。
ものすごくハイリスク、ローリターン。
なのに、そんな自己犠牲的な発想で行動しようと思い、実際に行動しちゃうから、その結果、ひとたび、うまくいかないと、不満やイライラになる。
大体、自己犠牲という時点で嘘が多い。
本当は、「これ」をしたくない。本当は、別の「何か」をしたい。
本当は「やめて」とか、「やりたくない」とか言いたい。
それなのに、喧嘩するよりはマシと思い、まるで、天秤にのせて、どっちの苦痛の方が耐えられる的な計算をしているから、その時点で、明らかに自然じゃない。
もしかしたら、計算通りうまくいくかもしれないけれど、もしうまくいかなかったら、うまくいかないだけどころか、むしろ事を大げさにして、状況を悪化させてしまう可能性の方が高いくらい。
自己犠牲側の家族は最初から明らかに嘘を持っていたし、アルコール依存性者側も、あ、実は嘘だったんだ、とか嫌々だったんだとかなれば、余計に傷つく。
で、アルコール依存性者の場合は、この、「傷つき」がめちゃくちゃ敏感に意味を持つ。
そして、抱えきれない痛みをかなりの確率で、家族に対して、爆発させる。かなりの確率でね。
***
こういう自己犠牲的な行動は、むしろアルコール依存性者をよく理解した時の方が起こりやすい。
次に来ることが、もう大体分かってくるから、先手、先手で、対策を講じようとする先の行動だから。
でも、その時点で既に支配権はアルコール依存性者の手の内にもうある。アルコール依存性者の出方を予測して、冷静さを欠いた自己犠牲的な行動に走っているのだから、もう勝負がついちゃっている。
だから、自分が偽善と、嘘の自己犠牲に我慢ならなくなったり、バカバカしくなって、不用意に冷静さを欠き、むしろ今度は自分から攻撃をしてしまう羽目になるくらいなら、最初から愚かで嘘のある自己犠牲的行動なんてしない方がいい。
とりあえずとその場の流れに流されて、一時的なことなかれ主義から、自分を厳しく制した方がじつは楽だったりもする。
まだ冷静さがちゃんとある時に、こうして自分が望んでいないことをして、私の幸せと時間を安売りしても、問題の解決どころか、むしろことを悪化させてしまうかも…とどこまでも謙虚になること。
自己犠牲的な行動云々で、相手をどうこうできると思って、行動し続けていた傲慢で愚かな私にばーかと言ってやりたい。