「私が悪いんだ」という考えについて
アルコール依存症の家族を持つ人は、しばしば、「私が悪いんだ。」って自責の念に陥ることがあります。
でも、もし、依存症本人に「お前のせいでこうなった。」と言われれば、一瞬でその自責の念も吹っ飛んだりしますが・・・
まあ、それは置いておいて、この自責の念について考えてみたいと思います。
「私が悪いんだ」だけで済むほど単純じゃない
「私が悪いんだ」と思うことは、はっきり言って、かなり辛いです。
Noutiも何度か、自責の念に陥りました。「あの時あれをしなかったら・・・」「あの時、あれをしておけば・・・」
色々考えるんです。
その先にあるのは、「そうしていれば、依存症にならなかったかも。」的な考えです。
でも、断言できるのは、周りの人が何をしようが、それによって、本人が依存症になった、ならないにストレートに直結するほど、依存症って単純ではありません。
(これを食べたから、胃腸炎になったとか、そういう次元じゃないです。)
言えることは、どっちんしろ、依存症になったかもしれないし、ならなかったかもしれない・・・だけです。
自責の念から逃れる時の罠
自責の念に陥っても苦しくなるだけ。
そうすると、人はだんだんと、自分を責めるのはやめよう・・・という動きにになります。これは自然なことです。
過去は取り返せないのだから、もう自責の念で思い悩むのはやめよう・・・とか思い、気持ちを切り替えようとします。
それはいいことです。
でも、罠があります。
Noutiは、もしあなたの家族にアルコール依存症がいるなら、確かに「あなた」によって、依存症にしたわけではないけれど、「あなた」に問題がないというのは、超危険な結論づけだと考えます。
人は常に影響し合う
ちょっとイメージしてみてください。
一つ屋根の下に複数の人が住んでいます。夫婦なら2人だけです。2人も立派な複数です。
で、ある一方が依存症にあったとします。
その時、一緒に住んでいた家族の影響が、依存症者にまったく影響がなかった!なんて言えますか?
答えはNoです。絶対にありえません。
人は常に影響しあっています。人は常に関わっています。家族なんて、一緒に住んでいるだけで、めちゃくちゃ影響しあっています。
だから、もちろん、依存症者に影響を与えているんです。
いい影響も与えているし、悪い影響も与えています。
こればっかりは、仕方がないです・・・。
人が関わる時に、完璧な関係なんて、どこを探しても存在しません。
人は勝手に裁くし、自分の思いで好き勝手なことをしたがるし、なんやかんやいって、基本は自己中心の生き物なんです。
だから、もちろん、依存症になったのは、決して「私が悪い」わけではないけれど、自分が相手に与えた影響は、良いものばかりでなく、悪いものもあったと認めることはめちゃくちゃ大切です。
なぜなら、そう考えないなら、何も変わらないからです。
じゃあ、結局は「私が悪いんじゃん!」って、また元に戻って、再び自責の念に戻る人がいます。
でも、そうじゃないんですね。
みんな悪いんです。
誰とは決めつけられない
依存症になったのも、色々な環境の中で、いじめがあったりとかストレスがあったりとか、トラウマがあったりとか、傷つけられたとか・・・そんな中でよくはわからないけれども、徐々にお酒に手が伸びていったんです。
そして、依存症になっていない家族も、親との問題とか、劣等感からか支配しないとやっていられないような考え方をしてしまったりとか、理想を追い求めすぎることになってしまったとか・・・色々な問題を抱えているんです。そうなってしまったのも、色々な人との関わりの中で、体得していったんです。
依存症者も、家族も、みんなそうなってしまったのは、人と関わりから、学び、感じ、考え、結論付けて、行動をとっているからです。
もはやそれは、誰が悪いからとか、そういうことではないんですね。
言うなら、みんな悪いんです。
つまり、決めつけられないんです。
決めつけられないことを、決めつけようとするから、苦しくなっちゃうんです。
人類全員に悪いところがどこかしらあって、その悪い影響を受けつつ、与えつつみたいなことを繰り返しているところがどうしてもあるんです。
だから、話を元に戻しますが、「私が悪いんだ。」とかで苦しむのは、やめましょう。そんな断定できないので。
でも、「私には悪いところがある。」を認めましょう。
そうすると、依存症者に対する接し方もだんだんと変わってきます。
物事の見方も変わってきます。
不幸のヒロインのように感じていた自分に対して、少し好きになれる部分が見えてきたりします。
私はダメだ、ダメだ、私のせいだ、なんて思い続けても何も変わりません。変わらないどころか、次第に死にたくなってきます。
だからと言って、そこで、いきなり、私は、すごい、すごい、いい人なんだって思うこともまた違うんです。
ただ、私は確かに問題はある。それでも成長しよう。人は傷つけることはもうやめよう。人生を通して、大きなことに気づかせてくれた、この依存症の家族の存在を受け入れようとするんです。
そう思う時、依存症者がどうとか、私が依存症にしてしまったとか、そんな傲慢で独りよがりの考えではなくて、
ボロボロになりながらも、傷つきながらも、不完全な自分を受け入れて、それでも生きる価値のある人生を、日々の成長を楽しみながら、一生懸命に生きていこうとする力が与えられるのです。