依存症は愛の欠如!?
家族が依存症になったのは、愛の欠如が原因です・・・。
色々な意味でね。別に家族だけじゃなくて、過去とか、職場とか、本人の受け止め方とか・・・色々。
結局孤独で、傷ついているんですね。本人は。
でも、家族は、依存症者の原因は愛の欠如だって言われたからって、
「じゃあ、もっと愛そう!」
なんて、そんな簡単にいきませんよね。
大体、愛ってなんだよ!?そこからですよね。
私がもっと愛せば・・・
私がもっと大切にすれば・・・
そんなことを思うと共依存の始まりです。
どんどん苦しくなります。
真面目な人は自分を責め始めます。
自分とさえ出会わなければ、この人はもっと幸せだったのでは?
とか、本気で考えたりします。
Noutiから言わせれば、あなたと出会わなかったら、死んでいたかもね・・・です。
リアルに。
愛の欠如だから、無理にセックスをするとか、
休日の過ごし方を無理に合わせるとか、
一緒に過ごせるように、本来やりたいこと、やらなくちゃいけないことを我慢する・・・とかやめた方がいいです。
なぜなら、結論は、努力してもしなくても、飲みます。
依存状態に陥っている脳への対処と、
愛の欠如による感情の空虚さはまた別物です。
愛は確かに欠如しているけれど、
アルコール漬にすっかり慣れきった身体に対する反応と、気持ちは別物です。
これが理解できないと、
「私のことを愛しているのに、どうしてお酒をやめないの?」
とか平気で言ったりします。
愛の欠如の依存症者に対して、
「お酒をやめるためなら。」的な考えでの行動はことごとく失敗します。
セックスも虚しくなります。
予定を立てて付き合ってあげても、喧嘩に終わります。
期待することがそもそも間違っているからです。
愛の欠如の依存症者に対しては、心からの「愛」が必要なのであって、裏で別の期待をする「操作」は求められていません。
それどころか「操作」は互いの関係をますます壊します。
純粋に愛したいと思うことをするんです。
そのためには家族も傷ついている心を癒さなきゃ始まりません。
自分の心を癒す前に、依存症者のために、あれやこれやなんて到底やれません。
あらゆるボランティア精神も、自己犠牲もことごとく跳ね返されて、
疲弊しきった心では何もできません。
だから、愛の欠如の依存症者のために、「愛そう」なんて思わなくていいんです。
ただ、そうなんだな。と思えばいいだけ。
自分の心が癒されて、回復して、余裕ができて、
そして自分がまた正常に戻っていくときに再び人を愛することができます。
なぜなら、「愛する」っていう行為は本当に人間らしい行為だから。
どの人間も望んでいることだから。
本当は心の中で「心の底から、人を愛したい」と思っているのが人間。
愛することは喜びだから。
それが傷ついて壊れちゃっている時は、自分を修復する時。
愛の欠如の依存症者に「愛せない!」なんてプレッシャーを感じないで、
堂々、「私も、私こそ、愛の欠如なんだな〜」って思えばいいんです。