アルコール依存症者への我慢大会はやめよう
アルコール依存症に対して、我慢している家族は多いと思います。
あまり自分で「我慢している」と自覚がなくても、結局アルコール依存症に振り回されて、イライラしたり、ストレス溜まったり、欲求不満になっているなら、間違いなく我慢しているということ。
で、この我慢は百害あって一利なしだから、本当にやめようという話。
まず、我慢って誰に対してしているのかというと、アルコール依存症者に対して。つまり、自分じゃないのね。
自分に我慢しているのもそれはそれで問題だけど、人に我慢しているなんて、めちゃくちゃ問題。
だって、人に我慢しようがしまいが、人は人で勝手にその人の人生を進めていくわけだから。
だから、もし我慢に対しての原理原則があるとすれば、人に対する我慢は、100%裏切られる・・・です。
だって、他人の人生の主導権は他人にあって、自分にないので。
まして、まして、それがアルコール依存症者に対してだったら、もう『絶対』とか、『確実』がつくくらい、裏切られる。
(嫌だね、裏切られるって言葉。Noutiも大嫌いです。
でも、裏切られるって、結局その前に約束とか、期待とか、思いとか、我慢とかが隠れていたんだよね。)
アルコール依存症において、我慢するということは、どこか「自分さえ我慢すれば、どうにかなる」って心の隅でまだ思っていること。
Noutiは散々の地獄を経験して、このブログでは、「そーゆーものじゃないよ!!!」って書き続けているけれど、それでもまるで「希望は捨てない!」「夢は捨てない!」かのように、「自分さえ我慢すれば!」って思い続けている。
もし、そうなら、すごくストレートに言うと、「はき違い」していると思った方がいいです。
ごめんなさい、乱暴で。
人は自分で自由に、自分のことに希望を持って、自分のことに夢を持つのであって、他人のことに希望を持って、他人のことに夢を持って、そして自分はひたすら我慢するなんて・・・成り立たないことです。
世界平和!とかの夢を持って、自分はひたすらずっと喧嘩しない、喧嘩しないって我慢していたって、喧嘩はそこらじゅうで起きる。
アルコール依存症において、我慢する人は、
「私さえ怒らなければ・・・」
「私さえ稼げば・・・」
「私さえ愛せば・・・」
・・・
・・・
・・・
もうやめよう。
相手がスリップしたのも、相手を断酒に導くのもあなたではない。
あなたではない。
たとえ、元アルコール依存症者から、「妻のおかげで・・・」って言われても、あなたではない。(←夫が勝手にあなたの存在も一部活用しただけ。)
もちろん、人間は影響し合う生き物だから、あなた存在というのは、何かしらの影響はいつもある。
でも、だからって言って、アルコールという魔力をやっつけらる!?なんて思ったら、それは勘違い甚だしいと思った方が無難だし、実は全然何も太刀打ちできてないという現実に直面するだけ。
(涙)
「アルコールさえなければ、幸せな結婚生活ができる!」と思って、我慢するくらいなら、ごめんなさい、本当に、離婚した方がいい。
本当に。
恐らく、結婚というものを「自分を幸せに豊かにするもの」と捉えていて、「共に創り上げる」ものと捉えられていないところに、ムリがある。
で、幸か不幸か、アルコール依存症と結婚したことで、「自分の本音」が露骨になっただけ。
我慢大会は本当やめよう。無駄だから。
もう、我慢している時点で、恐らく家中に重苦しいどんよりした空気が充満しているはず。
Nouti的には、我慢特有の我慢が生み出した、我慢色の空気。Noutiも何度もそういう空気吸ってきたー。
まずは、今のアルコール依存症者との関係における問題解決は、「我慢することじゃないこと」を知る。
短い言葉だけれど、⬆︎本当大切。
我慢している限り、“自分さえ◯◯すれば、△△になる。”という論理が全然抜けていないから。
つまり、自分がまだアルコール依存症を管理・支配できると思っている。その時点で、アルコールの思う壺。
もう、本当、このループやめよう。
ループのやめ方は、我慢をやめること。
もちろん、我慢をやめるって、いきなりキレ出すことでも、もの壊し始めるわけでも、今までのストレスをグチグチ言い始めることでもない。
我慢をやめるってのは、ただ、人の人生の主導権握ろうとするのをやめて、自分の人生の主導権をちゃんと取り返すこと。つまり自分の人生に笑顔になって、楽しむってこと。