「自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを与えてください」の言葉から
ニーバーの祈りというのは、AAとかでもよく取り上げられていますので、ご存知の方も多いと思います。
その中に、
「自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを与えてください」
という言葉があるのですが、
私にとって、これが本当に難しかったです。
私は、基本的に、自己肯定感があまり高い方ではなく、劣等感も強く、
「自分を受け入れる、ありのままの自分を受け入れる」
ということが、とても苦手でした。
そのままの自分、今の自分、ありのままの自分を、「そのままでいいよ」とは、なかなかできないので、すぐに何かをし始めていました。
焦っていました。
急いでいました。
忙しなく動いていました。
何か行動する、何でもいいからとにかく何かしている、そのことで、なんとか「ありのままの自分」から目を逸らし、「今の自分」を否定し、なんとか、成長した自分になろうとしている・・・そうして、ひとまず「今の自分」じゃない自分になろうと行動しているなら、少しだけでも安心感を覚えられたんですね。
そんな私でしたから、先ほどのニーバーの祈りの中にある、
「自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを与えてください」
というのは、私の行動面において、具体的に「何をする」というのが見当たらなかったんです。
私は、「何かをしていないと自分に価値を感じられない人間」でしたので、そもそも、自分に変えられないものということを、見ようとする視点がない、つまり、自分の目の前にあること、自分の環境、自分の感情、自分の交友関係、あらゆるものは、「自分に変えられる」と信じきっている自分がいる。
「自分に変えられないものを・・・」という言葉の中にある「自分に変えられないもの」に対して、全く盲目になっているから、そもそも「自分に変えられないもの」が、自分の中に存在していない。
だから、この祈りは随分と長い間、知ってはいたけれど、実際に祈ってみたけれど、結局のところ長い間、自分のものにできなかったんです。
それは、「自分に変えられないもの」すら見えていない、私の心の態度だったんですね。
『「自分に変えられないもの」が、自分の中に存在していない』というのは、こうしてブログの文章に起こしてみて、まじまじと見ると、改めて、とてつもなく傲慢な態度でもあったなと思います。
「生理的に受けつけない」という表現があると思います。人間関係において、特に男女間とかで、たまにこの表現を聞くんですが、私の中では、あんまり意味がよくわからない言葉でした。
というのは、この表現を使う場合、理由が、「生理的に受けつけない」であって、はっきりとした何か理由があるわけではないことがほとんどだからです。
でも、今思うと、私にとって、この「生理的に受けつけない」というのが、まさにニーバーの祈りの前半、「自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを与えてください」だったのかなと思います。
自分に変えられないものはもちろん沢山、山のようにあるのだけど、どこか、盲目で、生理的に受けつけない、あっても、ないかのようにしてしまう自分がいつもいたなと思います。
だから、どれ程、アルコール依存症は病気だとか、何とか言われても、心の底では、受け入れていない、どこか跳ね返している・・・祈りの中にある「落ち着き」なんてことは本当は全然求めていない、落ち着くどころか、むしろ真反対に、もっともっと動かなくてはと思っている自分がいたんだなと思います。
草木を見ると、花を見ると、時が熟して、実がなる、芽が出る、若葉が出る・・・自然はいつも、時の流れと共にあります。無理やり伸ばそうとしたら、枯れてしまう芽も、じっくり時を待って、見守るなら、やがて大きな大木となる。自然はいつも時の流れと共にいます。
時を待つこと、落ち着くこと、静まること・・・これらは「何もしない」ようにみえて、それは本当に大きな力に任せるということをしているんだなと思います。