イネイブリングの解釈を都合のいいように使う
Noutiは、
アルコール依存症のことをよく勉強して?きたつもりでしたが、
その勉強によって、かえって色々な考えを吸収したことで、空回っていた時期がありました。
正直、知識が入れば入れほど、使い方を間違えると、変な方向にもなりうるかもしれないです。(もちろん、学びは大切!)
で、どういうときに変な方向になってしまうかというと、
都合のいいように、
自己解釈で、知識を引っ張ってきて、正当化する
ときかなと思うんです。
たとえば、
イネイブリング
に関して。
ネットで調べると、この言葉の意味は、
アルコール依存症者が飲み続けることを可能にする(周囲の人の)行為を「イネイブリング」、それをしてしまう人のことを「イネイブラー」と言います。たとえば二日酔いで朝起きてこない本人に代わって会社に電話を入れる、サラ金の借金を返してあげるなど、周囲がよかれと思ってすることがイネイブリングになりがちです。責任の肩代わりをすると本人が感じるべき後悔や痛みを軽減してしまうため、本人は嫌な思いをせずにすみます。
(引用元:http://alcoholic-navi.jp/about/therapy/ineibuling/)
とありました。
内容は、何度か読んだこと、聞いたことがあるものですが、Noutiはこのことを、
夫のことを放置する
と解釈してしまっているところがありました。
同時に、イネイブリングを盾に、Noutiは、
夫を堂々と無視できる
ことにも使っていました。
【無視に関する記事↓】
Noutiが、イネイブリングをこのように解釈していた時、どうしていたかというと、夫をNoutiにとって、
めちゃくちゃ都合のいいように、対応
し始めていたんです。
その一つが食事。
妻が夫に食事を作るってことは、普通だと思います。世の中の人、そうやっている人沢山います。
ちなみに夫は、Noutiに食事を作ってくれたりします。夫婦なら、別に自然なことだと思うんです。
でも、Noutiは、夫が酔った状態で、まともに歩けないほどに酔っ払っている時に、ご飯の注文を出されると、ムカーとしてしまって、
作ることを拒否
したんです。
で、ムカーとして、作ることを拒否しただけなら、まだ健全なんですが、
Noutiの頭の中は全然それだけじゃなくて、
いやいや、私はそんな酔っ払いのために、ご飯作れないし、作っちゃダメだよ。だって、イネイブリングになってしまうから。飲酒をしている状態を認めることになってしまうから。
と、心の中で解釈していました。
だから、罪悪感ゼロむしろ、
こうしないといけないのよね!(悲しいけど)
くらいに思っていました。
Noutiがご飯を作ってくれないとなると、お腹を空いた夫は自分で作るしかないから、立ち上がって、フラフラしたまま食材を取ろうとし、準備をしようと試みます。
両手に食材を持って、歩くことは酔っ払いにとって簡単ではなく、バッターンと転んでしまうことは多々ありました。
それを見て、Noutiはまた思います。
仕方ないよね、お酒を飲んだ結果だから。苦しいけれど、この現実と向き合っていかないとね。
って。
ちなみに、転ぶと、大抵の場合、夫は凄まじいほどに怒り出して、
君が作らなかったからだ!
全て君のせいだ!
とかとか、出るわ出るわの暴言の嵐です。
その状況になると、Noutiは、
仕方ないね。病気だから。
そうやって相手を責めることになっちゃうんだね。
となって、ただただ可哀想な人と思って受け入れていました。
でも、何が正解なのかは、Noutiもわかりませんが、
ただ一つ言えることは、このエピソードというか、ドラマを客観的に見た時に、
普通にご飯作ってあげろよ
って、思うんです。
だって、イネイブリングとか何とか言って、それ以上に結局はNoutiの中で、夫のことをめちゃくちゃ、
罰したい気持ち
があるって丸わかりです。
もし、夫が酔っ払ってなくて、普通だったら、普通にご飯作ると思います。普通の家庭みたいに。
それなのに、ご飯作らないのは、ただの
お仕置き
なんですね。
お仕置きって、アルコール依存症にとっては、うまく働かないどころか、厄介なトラブルを引き起こします。
イネイブリングを勝手に自己解釈して、
手助けをしない
後始末をしない
と、そういう言葉尻だけを引っ張っていたな・・・なんて思うんです。
夫が酔っ払って、物を投げたり、物を倒したり、そういうものに対して、せっせと片付けるのは確かに違うけれど、
酔っ払っている夫が、ご飯欲しいと言っているのに、作ってあげないのは、
イネイブリングと言うより、ただの
お仕置き!
の意味合いの方が強いんじゃないかなと思います。
まあ、何が正解かはわからないし、もしかしたらNoutiが過去そうやって、ご飯を作ることを拒み、夫が自分では作れないという現実に直面したことが、夫自身、問題に向き合うきっかけになった部分があったかもしれませんが、
正直、懐疑的です。
というのも、依存症って否認の病気と言われている通り、
やっぱり自分の病気、問題に向き合うというのは、
誰かがそう仕向けて、気付くっていうのはほぼなくて、
本当に本人が心から抜け出したいとなって抜け出すもの
だと思うからです。
そんな妻の小手先の技術や、罰したい気持ちなんかで依存症が治るなら、世の中こんなにも多くの方が依存症で困っていないし、
そもそも依存症なんてたいした話じゃなくなってしまいます。
罰したい気持ち
は、結局のところ、
他人へのコントロール。
人ごとにめちゃくちゃ構っている
ってことですから。
もっとコントロール範囲内の自分の人生に構い、
人生をよりよくしていくことにフォーカスしていきたいですね。